こんにちは! せがひろです。
今回は、「禅と日本文化」
これについて解説します。
私と同世代(現在、50代)以上の方は、
アメリカに追い付け追い越せの意識が
どこかしらにあると思います。
そんな中、そもそも日本というものを
良く知らないと、
経済での戦い方がわからないと
思うんですよ。
もう、30年以上も経ってしまいましたが、
バブルの時、日本は間違いなく、
世界をリードしていました。
その時点では、日本的なやり方が
良かったんだと思います。
なので、古き良き日本を知るために
今回は、この本を取り上げようと思いました。
・東洋思想に興味がある人
・頑張りすぎ、気の使いすぎで疲れている人
・他人の意見や周囲の状況に流されやすい人
・小さなことに喜びを見出せる豊かな感性を磨きたい人
そんな方々に読んで欲しいです。
禅や悟りは、「不立文字(ふりゅうもんじ)」
の世界であり、言葉による説明を退けます。
著者は、こうした雲を掴むような境地を、
卓越した英語力と知性で世界に発信した
日本最大の思想家の一人です。
構成としては、最初に著者を紹介し、
本編にて3つのポイントに絞って、
解説したいと思います。
それでは早速、参りましょう!
鈴木大拙とは
鈴木大拙(本名:鈴木貞太郎)は、
1870年石川県金沢市に生まれました。
鈴木家は加賀藩医として
加賀藩家老本多家に仕えた家柄でしたが、
貞太郎が6歳の時に父が他界。
それ以来、極めて困窮した生活を
余儀なくされました。
1887年第四高等中学
現在の金沢大学に入学すると、
後に生涯の友となる
西田幾多郎と出会います。
しかし、それから間もなく
学費が払えないという理由で中途退学し、
一家を支えるため、
小学校の英語教員として働きました。
1891年21歳になった貞太郎は、
念願であった東京へ遊学します。
早稲田大学の前進、
東京専門学校に入学しますが、
学生生活の中に充足感を見い出せず、
同年7月、禅寺として知られる
鎌倉円覚寺の門を叩きました。
ここで彼は山岡鉄舟を始め、
明治期の著名人が参禅したとされる高僧、
今北洪川(いまきたこうせん)
老師と出会い、
本格的に禅の道を歩み始めます。
一方、その頃、東京の友である
西田幾多郎も石川から上京。
禅の修行ばかりで学問から離れている
友人を心配し、
自分と同じ大学に入るように進め、
1892年貞太郎は、
東京帝国大学哲学科に入学します。
しかし、在籍はしたものの、
その生活は相変わらず禅一筋でした。
1894年には、今北洪川老師の後を継いだ
釈宗演(しゃくそうえん)老師より、
大拙(だいせつ)という名を授かります。
釈宗演老師は日本の僧として、
初めて世界に禅を伝えた人物として
知られています。
そのきっかけとなったのが、
1893年シカゴで開催された万国宗教会議です。
この会合は、近代科学の発展により、
キリスト教信仰が揺らいでいた
アメリカが危機感を抱き、
これからの宗教のあり方について
議論するという目的で開かれました。
釈宗演老師は、
日本仏教の代表者の一人として出席。
仏教の容姿、並びに
因果法と題した公演を行い、
万来の拍手を浴びます。
その後、聴講者であったアメリカの宗教学者
ポール・ケーラスと信仰を深めると、
ある日、彼から中国古典
「老師」の英訳にあたって、
漢文と英語が堪能な助手が欲しい
という相談を受けます。
そこで釈宗演老師は、
元英語教員の大拙を推薦。
これを人生の好機と捉えた大拙は、
渡米を決意しますが、
一方で、アメリカに渡ることで、
禅の修行ができなくなるのではないか?
という懸念を抱いていました。
そこで彼は、不退転の覚悟を持って
「臘八接心(ろうはちせっしん)」という、
約1週間、昼夜寝ずに座禅を組む
厳しい修行に挑戦。
その結果、ついに最初の悟りを開きます。
そして翌年、1897年に渡米すると
ケーラスが経営する出版社に雇われ、
中国古典や仏教関連書籍の翻訳編集などの仕事に
11年間従事することになります。
こうして大拙は、卓越した英語力と
国際感覚を身につけ、1909年、日本に帰国。
その後、東京帝国大学、
学習院大学で教鞭を取り、
1921年には、大谷大学の教授に就任。
仏教研究の最先端を走りながら、
アメリカ・ヨーロッパなどで公演を行い、
日本文化や禅の精神を世界に伝えました。
その内容は後に英語でまとめられ、
禅と日本文化という著作として
結実することになります。
また1944年には、
現代仏教哲学の頂点と言われる
「日本的霊性」を発表し、
日本人の真の宗教意識について論じました。
さらにその思想は万年に行くほど
深みが増していき、
1963年93歳の時に「東洋的な味方」を刊行。
そこには激動の一世紀を生き抜いた彼が、
最後に到達した境地と東洋の真の意義
について語られています。
大拙の人物像
彼は、96歳で亡くなるまで
日本の経済や文化を牽引する
多くの指導者たちに愛され
支援を受けてきました。
その交友の記録を紐解くと、
自ずと彼の人柄が浮かび上がります。
まず一人目は、出光興産の創業者であり、
小説「海賊と呼ばれた男」のモデルとなった、
実業家の出光佐三(いでみつさぞう)。
彼にとって大拙は、経営者としての孤独や、
悩みを打ち明けられる数少ない精神的支柱でした。
大拙の葬儀では、佐三が喪主を務め、
「先生の死は、私にとって暗夜に
灯しびを失ったようなものだ。」
と追悼しました。
二人目は、総合商社安宅産業を
創設した安宅弥吉。
彼は大拙と同じ石川県出身で、
19歳の時に学生の寄宿舎で知り合いました。
ある日のこと、二人で鎌倉の円覚寺に参禅していた際、
弥吉は突然、こんなことを言い出しました。
「私は、この国を強くするために
商売の道に進もうと思う。
もし、君が学問をすれば、
貧乏するに違いない。
いずれ私が金を設けたならば、
必ず君を助ける。」
その後、弥吉は実業家として大成。
約束通り大拙の生活費、出版資金など、
生涯にわたって経済的支援を惜しみませんでした。
そして三人目が、日本を代表する
哲学者西田幾多郎。
二人は明雄として互いに深く信頼し、
尊敬し合っていました。
大拙は、そんな最大の理解者について
次のような言葉を残しています。
私は西田が相手になってくれないと、
自分の心持ちを誰も分かってくれず、
話が話にならないような気がする。
意見を批判するのでも、受け入れるのでも、
反撃するのでもなく、
ただ彼が「うん、うん」と頷くばかりの日など、
いくらでもある。
けれどもこちらは、話したということ、
それ自体で満足を覚える。
他の人では、必ずしもそうはならない。
不思議なものである。
1945年6月終戦の3ヶ月前、
西田が帰らぬ人となった時、
大拙は、その悲しみに耐えきれず
玄関の式台に倒れたまま慟哭しました。
禅の第一任者なのだから、すでに悟りを開き、
どんな苦しみや悲しみにも動じないのではないか?
そう思った方もいるかもしれません。
しかし大拙は、春に花が咲き
冬に木の葉が散るように、
おかしい時は、何の苦も無く笑い、
悲しい時には、心の底から悲しむ。
そんな自然の筋道に叶った
人物だったと言います。
では、大拙という人を
親友の西田はどのように見ていたのか?
生前、彼はこう語っています。
大拙君は、私の中学時代からの
親しい友人の一人である。
君は当時からから他と違っていた。
若くして、既に超世間的な態度で
深く人生の諸問題について考えていた。
そして今日に至るまで仏典を英訳し、
あるいは禅について論じ、
齢古稀に及んで未だ
その窮するところを知らない。
羅漢の如く人間離れをしているが、
一方で、大変情に細やかなところがあり、
無頓着なようであるが忠実で綿密である。
私は多くの友人を持ち多くの人と交わった。
だが、君のような男は稀である。
最も豪そうでなく、
最も豪い人かもしれない。
大拙君は、高い山が雲の上へ
頭を出しているような人である。
そして世間を眺めている。
いや自分自身をも眺めている。
全く何もないところから
物事を見ているような人である。
君には何ら作為というものはない。
その考えるところが、あまりに冷静に
思われることがあっても、
その奥底には深い人間愛の涙を湛えている。
日本を代表する文化人や経済人に慕われ、
国内外に絶大な影響を与えてきた鈴木大拙。
背景知識は以上になります。
それでは本編に入っていきたいと思います。
割り切らない生き方
外国で暮らしていた頃、よく口癖のように
言っていたことがあります。
それは西洋では物が二つに
分かれてからの世界に腰を据え、
それから物を考えるのに対し、
東洋の人々は物がまだ二分しない
ところから考え始めるということです。
難しい言い方になりますが、
西洋は二分性の考え方に立脚し、
東洋は朕兆未分(ちんちょうみぶん)
以前に目をつけているのです。
この一節は、西洋と東洋における
物事の捉え方の根本的な違いが示されています。
まず西洋は、二分性の考え方に立脚するとありました。
これは要するに、主観と客観、善と悪、生と死、
聖者と罪人、勝者と敗者というように、
あらゆる物事を2つに分けて考えることを意味しています。
分けることは分かることである。というように、
人類は複雑な物事を分類・区別することで、
世界を認識し、自然科学や哲学などを発展させ、
文明を築き上げてきました。
大拙は、こうした西洋の二分性から
学ぶべきことは多い。そう認める一方で、
人間の生活は決して2つには割り切れないし
割り切るべきでもないと、
その弱点を指摘しています。
例えば、現代の政治や社会の問題を考える時、
右と左、保守と革新というように
よく対立軸で議論されることがあります。
ですが、人間の感情、利害が複雑に絡む問題を、
たった2つのカテゴリーに納めることは
現実的ではありません。
また人間そのものに二分法を適用すると、
Aさんは役に立つがBさんは役に立たないといった、
功利主義的な人間の仕分けが社会の
至るところで行われることになります。
ジェンダーに関しても、男性と女性という
枠組に囚われない人々が、
多数存在することからも明らかなように、
今まさに二分性の論理を超えた視点が
求められています。
物事を2つに分ける思考は、
人間の生活に不可欠なものですが、
白黒つけられない曖昧な事柄が
機械的に排除されたり、
カテゴライズされない人々の
存在が無視されたり、
二分された集団間で絶え間ない
争いが生じたりするなど、
多くの問題をはらんでいるのです。
そこで大拙は、こうした二分性の
欠陥を補完するという意味で、
東洋的な物のみ方を提案します。
その1つが、無分別智(むふんべつち)
と呼ばれるものです。
無分別智とは、この世界が言語や思考の
フィルターによって分けられる前の
全体を感じる心のことを言います。
私たちは、しばしば「あの人は分別がある」
という言い方をしますが、
そこには、物分かりが良い。道理が分かっている。
といった肯定的な意味が含まれています。
しかし、仏教ではこの分別が様々な苦しみを
生む源泉と解きます。
分別は自分と自分外のものを切り分けることであり、
それはすなわち自分という存在。
あるいは自分のものに対する
意識を強めることを意味します。
例えば、自意識が過剰であれば
他者比較による劣等感に悩まされ、
これは自分のものだという所有意識が強ければ、
その分、それを失った時の苦痛も大きくなります。
そこで求められるのが分別を超えた地へ、
無分別地です。
それは分別を持たないことではなく、
分別を持ちながらも、
それに固執せず、万物を一体として
捉える心のあり方を指します。
これについて大拙は、
著書「禅と精神分析」の中で、
次のように説明しています。
花を知りたければ、
あなたが花になることです。
花となって花を開き、
花となって光を浴び、
花となって雨に打たれるのです。
これができた時、初めて花は
あなたに語るでしょう。
そして、あなたは花の喜びと
苦しみを知ります。
花の中に脈打つ命を知ります。
そればかりではありません。
花を知り得た「知」によって
全宇宙の神秘を知るのです。
この大拙の言葉にあなたは、
どんな印象を持たれたでしょうか。
合理的で分かりやすい説明を聞いたというより、
むしろ、一辺の詩を味わった。
そんな感覚に近いかもしれません。
つまり、彼は理性や言語を超えた
私的で直感的な体験を通じて、
万物が一体となった世界を
捉えることを解いているのです。
花を知り得た地によって全宇宙の神秘を知る。
このように万物の中に万物を見る心の働きを、
大拙は「霊性」という言葉で表現しました。
彼の代表的著書「日本的霊性」によれば、
霊性とは、民族がある程度の
文化段階に進まない限り覚醒しないものであり、
日本では、鎌倉時代に
その奉加が見られたと言います。
例えば、浄土系の思想は、
南無阿弥陀仏という念仏を唱えれば、
善人であろうと、罪人であろうと、
誰もが成仏できると解きました。
そこには善・悪、自・他といった分別がなく、
私も、あなたも、仏も、世界も、
全てが1つであるという心のあり方。
すなわち、無分別智が体現されています。
また本書では、こうした西洋とは異なる
ものの捉え方が、
東洋独自の美意識を育んだとして
次のように説明されています。
東洋の人は何を考えるにしても、
生活そのものから離れないようにします。
ただ、その生活とは、
いわゆる物質的なものではなく、
霊性的な向上を意味しいます。
例えば、庭を作る時は、心の休まるように
品性が高まるようにと構造を立て、
音楽を奏でる際には、
それがどれほど他者の霊性面に
利するかを考える。
絵を描くこともまた然りで、
古の人々は胸に万感の書物を納めておかねば、
本当の絵は描けぬ。と言いました。
日本の床の間にある絵は、
壁の空間を塞ぐ飾りでも、
感覚的な喜びを
提供するものでもありません。
それは有限を超えた何かを見たいという、
人間の欲求に答えるものです。
それゆえ、これらを鑑賞する時は、
香を焚いて心身を沈めたり、
床の間を家の奥に設け、
そこを神聖な場所にしたりするなど、
敬虔(けいけん)な態度が求められます。
美は単なる美ではなく、霊的な要素から
生まれる必要があるのです。
日本文化を支える要素の1つに
幽玄という概念があります。
それは言葉や形として現れない深遠な美や、
神秘的な余白のことを指し、
日本人の生活面や芸術面などに
多大な影響を与えてきました。
こうした幽玄さ、霊性的な
奥深さを重んじる社会では、
あらゆる物事に理屈をつけようとする、
いわゆる、抽象的思考を退けます。
そのため、東洋では西洋のような
哲学の発展は見られませんでしたが、
一方で、その無限の想像力は
豊かな詩の世界や無心・悟りといった
境地を切り開きました。
悟りとは、開放・自由を意味しますが、
それは英語権における自由。
すなわち、libartyやfreedomとは、
全く異なる概念だと言います。
そんな東洋と西洋における自由の違い。
そしての自由を得るための修行、
禅について掘り下げたいと思います。
努力をしてはいけない
自由という文字と、
その本来の意義について
話してみたいと思います。
元々「自由」という文字は
東洋思想の特産物であり、
西洋的な考え方にはないのです。
西洋からフリーダム、リバティ
という言葉が入ってきた時、
日本の学者たちは、それに該当する言葉を
見つけることができませんでした。
そこで彼らはたくさんの古典を漁った結果、
最終的に仏教の言葉である
「自由」を当てはめたのです。
大拙によれば自由とは元々仏教の言葉であり、
西洋における自由。
すなわち、リバティやフリーダムとは
全く違うものだと言います。
では、西洋における自由とは何なのか?
自由獲得の象徴とも言える
フランス革命に影響を与えた
哲学者ルソーの著書
「社会契約論」にはこうあります。
人間は生まれつき自由でありながら、
至るところで鉄の鎖に繋がれている。
このように西洋的自由には、
まず自分を支配する対象があり、
そこから逃れる。解放される。と言った、
否定性・消極性が含まれています。
一方、東洋の自由はどうでしょうか?
自由という文字は自らに由ると書くように、
己から出るものといった積極性を内法しています。
そこには、抑圧・束縛から逃れるといった文脈も、
政治的な意味合いもありません。
その上で大拙は、自由の本当の意味について
次のように語ります。
自由の本質とは何でしょうか?
これを卑近な例で言えば、
松は竹にならず、竹は松にならず
各自が、その位に住すること。
これを松や竹の自由と言います。
松は松として、
竹は竹として、
山は山として、
その拘束のなきところを
自分が主人となって働く。
これを自由というのです。
松が竹にならないというのは、
人間の判断であり、
松からしてみれば、
余計なお世話でしょう。
松は、人間の規制や原理で
生きているのではないのです。
このように東洋的な自由とは、
圧迫からの解放としての自由ではなく、
そのものが、そのものとしてあること。
別の言い方をすれば、
自分自身の本質に従い、
自分の意に即して自然のままに
生きることを意味します。
ただしそれは、ワガママに
生きるということではありません。
ワガママとは、自分で自分のことが
制御できなくなり、
その時々の欲望や感情に
身を任せている状態を指します。
例えば、好き放題食べたり、遊んだり、
一目も憚らずに感情を荒にしている状態は、
一見すると自由に思われますが、
実際には外的な刺激や
内的な欲望によって縛られています。
つまり、自性を欠いた自由は、
本当の自由ではないのです。
ではどうすれば何者にも囚われない
境地に到達できるのか?
本書では、その1つのアプローチとして
禅を上げています。
大拙の著書「禅学入門」によれば、
禅とは、何者にも拘らないこと。
禅ての不自然の妨害からの離脱である。
そのように説明されています。
一般的に人は、社会の常識や伝統、
人間関係のしがらみに基づいて、
何かを判断したり、評価したりするものです。
ですが、禅ではこうしたあらゆる拘りを捨て、
物事をありのままに見つめ、
受け止める心のあり方を追求します。
そのためには何よりもまず、
自分という人間の源。
自分の心の本性と呼ぶべきものを
捉えなければなりません。
大拙によれば、それは私たち
一人一人の中に眠っており、
常に覚醒の時を待っていると言います。
そしてその覚醒を言葉や理屈ではなく、
体験的・直感的に捉えることを悟りと言い、
それは人間が持てる力を
全て使い尽くした時に
発生すると言われています。
また禅は、人間のはからい、
自覚的な努力といった、
あらゆる作為を退けます。
その理由について本書では、
次のように説明されています。
論理学には努力と苦労の跡や、
自覚の意識があります。
その応用である倫理学も同様です。
倫理的な人物は賞賛される
ような行動を取りますが、
それは常に意識的に行われます。
将来的に何らかの報酬を
期待している場合もあるでしょう。
確かに彼の訓練された行動は、
客観的に見ても、社会的に見ても、
「善」かもしれません。
ですが、「善」であっても
「純」ではないのです。
禅は不純というものを退けます。
人生とは芸術であり、
それは完全な芸術のように、
「自己忘却」が求められます。
そこには一点たりとも努力の跡や、
苦労の感情があってはなりません。
鳥が空を飛び、魚が水を泳ぐように、
禅の生活は、常に自然でなければなりません。
努力の後が現れた時、
人は直に自由を失います。
なぜなら彼は、その本然の生活を
営んでいないからです。
「自覚的な努力」
「打算的な企み」
こうした作為は、
人を自然から切り離します。
また作為があるということは、
何かをする主体と何かをされる客体を
明確に区分しているということであり、
それはすなわち、二項対立の世界に
留まっていることを意味します。
煩悩を生む分別にとらわれている限り、
そこに真の自由はありません。
禅が推奨するのは、
こうした対立を乗り越え、
平凡な日常を何の計いも、努力もなく、
感じるままに生きることです。
鳥が空を飛び、魚が水を泳ぐように
自然に生きる。
このように人間の生活から
あらゆる我欲や企みが消えた時、
人生そのものが一種の
美的創作になると言います。
努力とは、使い方を間違えてしまうと、
ありのままの自分の心を捻じ曲げる
可能性があるわけですね。
素直に生きるのが一番です。
こうした禅の精神が、日本の文化や芸術、
生活様式や価値観などに、
どのような影響を与えてきたのかを
次の章で、解説していきます。
不完全の美学
禅は、日本の武士階級の生活と
深く関わっています。
しかしそれは、暴力的な職務を
助けたというより、
むしろ、道徳と哲学という点において
彼らの人生を支えてきました。
道徳的には、己れが進むべき道を決めたら、
決して後ろを振り返ってはならないと教え、
哲学的には、生と死を区別
しないという考え方を示しました。
また禅が、シンプルで
克己的性質を有していることも、
戦う者たちに支持されてきた
要因と言えます。
視界に入る1つの対象に
一極集中する戦士は、
物質や感情の動き、知性の働きなどに
一切、邪魔をされてはなりません。
そんな彼らの鉄の意志を
禅は必要に応じて提供してきたのです。
戦国武将の武田信玄や上杉謙信も、
禅に深く系統していたように、
武士にとって禅は心を支える
1つの宗教のような存在でした。
また、過去にとらわれて
身動きが取れなくなることや、
余計なことに惑わされることを
戒しめる禅の教えは、
日本人にとって親しみのある
「潔さ」という道徳感を育みました。
潔よいとは、後悔や戸惑いがないこと。
心に欠けるところがないことを意味します。
死に向かう時も優柔不断な態度を嫌い、
風に吹かれた桜のように潔よく
散りゆくことが理想とされました。
また禅の影響は文化・芸術面にも及び、
中でも有名なのが日本古来の美識
「侘び寂び」を生んだことです。
侘び
侘びという言葉は、気落ちするという意味を持つ
「わぶ」という動詞と、
孤独で味気ないことを指す
「わびしい」という形容詞に由来し、
粗末で簡素な様子を意味します。
大拙は、本書の中で詫びの真の意味について、
次のように説明しています。
侘びの真の意味は、
貧(ひん=poverty)であり、
否定的に言えば、
時代の流行に乗る人々の一員にはならない。
ということです。
貧であることは、富・権力。名声といった
俗世の物事に目を向けず、
他方で、時代や社会を超えた
至高の価値を有する何かを
内面にありありと感じることを意味します。
これが侘びを構成する、本質的な要素です。
日本の文化生活には、
侘びの信仰が深く根付いており、
西洋の贅沢品や、
暮らしの快適さが浸透しても、
侘びに対する憧れが
消えることはありません。
知的生活においても同様です。
私たちは知識や観念の豊かさより、
むしろ、自然の神秘を感じることや、
静寂に包まれながら、
この世界を我が家のように
感じる感動を求めるのです。
多くの都会人が森でキャンプをしたり、
未踏の地に向かおうとするのは、
誰もが自然の胸元に帰り、
その鼓動をじかに感じたいと
願うからでしょう。
それこそ禅の心の習慣なのです。
要するに、日本人は自分が
生きているという実感を、
外側の事物からではなく、
自分の内面から
捉える能力や習慣があり、
そこには禅の影響によって生まれた
侘びという美意識が深く関わっている。
というわけです。
大拙は、この概念を欧米の人々に説明する際、
アメリカの思想家
ヘンリー・デイヴィッド・ソローの事例を挙げ、
彼が森の中の小屋で質素に暮らし、
充足感を得ていたことを紹介しています。
寂び
そしてこの侘びと同様、
日本の文化に深く根付いているのが、
寂びという美意識です。
これは、「さぶ」という動詞の名詞系で、
本来は時間の経過によって劣化した様子を
意味する言葉でしたが、
そこから転じて「さびれる」と言った
人がいなくなった静かな状態も表す
ようになりました。
大拙は、この寂びという美識について
次のように説明しています。
不完全な形、醜い形にすら、
美を具現化させる。
これは日本の芸術家たちが
最も好んできた妙技の1つです。
不完全性の美が、古めかしさや
原始的な荒々しさを伴う時、
そこに「寂び」が、微かに現れます。
寂びを構成する要素として
素朴な飾り気のなさ、古風な不完全さ、
シンプルで力が入っていない構造。
さらには、それらを芸術にまで高める
説明不可能な要素などがあげられますが、
それらは全て、禅の美意識から
派生したものなのです。
寂びの文字通りの意味は、
「寂しさ」や「孤独」ですが、
そこに漂う芸術的な要素を鎌倉時代の家人
藤原定家は、次の通り詩的に定義しています。
「見渡せば
花も紅葉もなかりけり
裏の苫屋の 秋の夕暮れ」
この一節で大拙は、
寂びの持つ芸術性を
新古今和歌集に収録されている
藤原定家の代表的な一首から
紐解いています。
現代語に訳すと、
あたりを見渡しても
花もなければ、紅葉もない
波打ち際には、ひっそりと
小屋が立っているばかり
秋の夕暮れ時の微かな光の中に…
といった意味になります。
文字だけで解釈すると惨めさ、
哀れさばかりが際立ちますが、
何度か声に出して味わってみると、
深い思索や想像を促す神秘的な静寂を
感じ取ることができます。
まとめ(禅と俳句と日本人)
侘び寂びを重んじた茶人千利休も、
この藤原定家の詩をヒントに
茶の湯の空間設計をした
と言われています。
また小さな事物や
自然物を軽んじるのではなく、
むしろ積極的に心を通わせ、
宇宙全体・森羅万象と
手を結ぼうとする禅の精神は、
日本の定形詩
俳句にも影響を与えました。
俳句とは、理屈ではなく
自分の直感で捉えた心理を
目の前の事物や現象を
通じて表現をする営みです。
そのため俳句を知ることは
禅を知ることに等しいもの
だと言います。
中でも、大拙が注目したのが
日本最大の詩人 松尾芭蕉の俳句です。
彼が読んだ夏の一句に
次のようなものがあります。
やがて死ぬ
けしきは見えず 蝉の声
この句はしばしば命の儚さを忘れ、
享楽的に生きている人間は、
大声で鳴いている蝉と変わらないといった
教訓的に解されることがあります。
しかし、松尾芭蕉が、大声で鳴く愚かな蝉と
本来立派であるはずの人間という、
二項対立の図式で
俳句を読むとは思えません。
大拙は、迫りくる運命に
無自覚な蝉を避難するのは、
あくまで人間都合の解釈であり、
芭蕉の直感を無視していると批判。
その上で、蝉は鳴いている限り生きており、
そこには永遠の命があると主張します。
つまり、やがて死ぬ景色は見えず、
蝉の声という一句は、
死ぬことすら忘れ、
一心不乱に鳴き続ける命が、
生と死の区分を超え、大いなる自然と
1つになっている瞬間を捉えたものと
解されるわけです。
このように詩の妙を味わえる
能力があるということは、
自他を区別したり、比較したりする、
いわゆる対立の世界を乗り越えることを意味します。
従って詩を理解しようとすることは、
禅の悟りに接近する行為であり、
両者は不可分の関係にあると言えます。
ただ現代社会は、既に対立の世界で
染まっており、
至るところで競争が行われ、
詩の世界とは程遠い状況にあります。
かつての哲学者シモーヌ・ヴェイユは、
労働者に必要なのは
パンでもバターでもなく
美であり、詩である
という言葉を残しました。
大拙も同様に、
何気ない反復作業や単調な日々の中に
「言いようのない詩情」を
見い出すことができれば、
その人の人生は一変する。
そのように述べています。
近いようで遠い場所にある禅の世界。
そこは古来日本人が大切にしてきた
豊かな情緒と想像性の泉でした。
いかがでしたでしょうか。
俳句も本も、字ずらだけで理解したと
思ってしまうのは、
まだまだ日本人の持っている能力の
ほんの一部でしかないと感じました。
本当に伝えたいことというのは、
それこそ作者に聞かなければわかりません。
しかし、自分で考え、感じ取ってください。
そういったメッセージなのかもしれませんね。
私も、一度見聞きして理解した
つもりにならないで、
こうしてブログとして記録を残し、
再度、見聞きしたときに
最初に書いた時に感じた思いと
その後の思いの違いを
大切にしたいと思いました。
また、二項対立的な捉え方について、
日本人なのに西洋の考え方に従おうとすると、
どこかにストレスを感じてしまうと
私は思っています。
もっと日本人らしさというものを習得して
ストレスフリーな生き方をしたいです。
あなたは、どう感じましたか?
この内容が参考になれば嬉しいです。